私のカメラ遍歴                        TOPに戻る
このペ−ジは「写団 猫の眼」のBBSに連載したものをまとめたものです。また文章は一般的な文節等は無視しています。サイト上で読みやすいように適度に組み合わせてあります。
写真機開眼

子供の頃、我が家には写真機があった。ペトリ7sというカメラである。
大人になってから親父に聞いたら、丸好カメラで買ったもの。当時23,000円くらいで、月賦でやっと買ったということである。
それはそうであろう、当時、親父の日通の賃金が1ヶ月1万円にやっとなっていた頃のお話である。大学出の初任給がやっぱり一万円である。
私が生まれた頃だから、昭和34年頃である。今の物価でいえば40〜50万円した計算となる。キャノンEOS1vに赤鉢巻のLレンズ2本分を足したくらいである。
カメラは高いもの。この強烈なイメ−ジがカメラ集めの基本的原動力となっている。

この頃から興味はたっぷりあったわけだが、カメラは家の財産。さわらせてももらえなかった。いつも皮のケ−スに入っていて高いところに下がっていた。
小学校3年生の頃、5歳年上の兄が押入れ暗室を始めた。ボルタ判のカメラであった。現像液を入れるパレットはホ−ロ引きであったことが時代を感じさせる。
4年生くらいの頃、カメラマンガム、チョコレ−トというのがあり、点数を集めるともれなくカメラがもらえるというのがあり、兄と二人で食べたくも無いガム、チョコレ−トをとぼしい小ずかいで買ってはせっせと集めてついにカメラを手に入れた。
しかしがっかりである。形こそは一眼レフであるが、素通しのファインダー、単速のシャッタ―スピ−ド、絞りは変わらず、レンズはもちろんプラスチック、いまなら使い捨てカメラであるが、写りはそれより悪く2,3回で使わなくなった。
一眼レフなどは小学生には夢のまた夢だったのである。



キャノンFTb

中学生の頃はギター少年だったわけで、まったく写真と縁が無かった。
高校生のとき新聞委員長になり、嫌でもカメラを手にする。つまらない写真を撮っては新聞に載せていた。この時が初めて手にした一眼レフである。
見たとおりに写るのが新鮮であり、接写もきくということで感動した記憶がある。
フィルムが余ると円盤に切りぬいた厚紙を窓ガラスに貼りつけて写真を撮り「UFOだ」などとやっていたわけで、まことに幼稚なカメラマンだったわけである。心霊写真もよく合成した。
あのカメラは、今思うにキャノンのFTbの標準付きだと思う。まるで自分のカメラのように使っていた。
就職したところが衣料の営業だったから、広告写真もよく撮った。このときのカメラも何故かキャノンのFTbの標準付き。広告といえばカメラマンで駆り出された。
十日町の山内写真館、滝沢印刷所にはずいぶん無理を聞いてもらった。
よく考えればCMカメラマンもやっていたわけである。(今気がついた)



初めて中古カメラを買う ミノルタXD

専門学校のとき中国に研修旅行があり、職場のおばさんが頼んでもいないのに息子の一眼レフを親切に貸してくれた。ミノルタのXDである。
これが中国で盗まれる羽目になるとはこの時点では想像もできなかった。
ご存知のように中国の国民は写真大好きである。私が行ったときは、彼女だか奥さんだかの写真一枚撮るのに30分くらいかけている光景に出くわした。
ポ−ズがどうの、首はこっちに傾けてとか中国語で言いながらカメラマンもモデルも真剣そのもの。日本人なら笑ってしまうほど。
最後のパ―ティに出かけるときXDを一旦持ったけど、こいつは重いからと思いなおし、コンパクトカメラにした。急いでいたからXDストロボ付きをベッドに投げたまま出かけて、帰ってきたらすでになかったというわけである。

これは明らかにル−ムサ−ビス係が犯人だが、みんなの気分を悪くするといけないので
黙っていた。
中国人が一生に買えるか買えないかというカメラを、裸で置いていった自分が悪かったと反省している。

もちろん、帰ってきてから弁償した。この時初めて中古カメラを買ったわけである。そう、XDの中古を買って返したわけである。
あの頃送料込みで4万円近くした覚えがあるが、今でも相場は変わらない人気のあるカメラである。

今の仕事をはじめた頃、一眼レフを持っていた。ヤシカFRである。ツァイスのレンズがつくけどそんなものはとんでもない。ヤシカMLの標準がやっとの貧乏。それでも満足していた。
これは後輩から貰ったものである。「面倒だから涌井さんにあげる」この一言で人生ばら色になった。もともとカメラ好き、それからが写真を
バカバカ撮るカメラ兄ちゃんになった


初めてのAF一眼 観音様の女神EOS

今の女房と結婚する前、ブラザーの積み立て掛け金がたまったのでなんか買わなくてはという相談を受けた。カタログを見てみるとキャノンEOSの750が載っている。迷わずこれを薦めた。
早速届いたカメラ、プログラムしかないファミリー用だが、初めての一眼AF、おおいに満足。ストロボが自動的にポップダウンするのが面白かった。一応女房の所有だったがまるで自分のもののように使った。そして最後は売ってしまったけど(笑)。

結婚して子供が生まれると被写体には事欠かない。ここから中古カメラ集めが始まる。同時進行で若いときやっていたモノクロを再開する。女房は子供の写真が増えるので大喜びである。世の女房族は「子供のため」という言葉に弱い。カメラ集めは暗黙の了解となった。

女房が看護婦やっていると、必然的に家事、子守りをやらなくてはならない。ばあさんも居るけど、日曜日くらいは休ませないと行けないので、日曜日は子守り兼カメラマンとなった。
カラー、モノクロとよく撮った。小遣いはほとんど写真関係につぎこんだ(その点は今もまったく変わっていないけど)。
とにかくカメラと名のつくものはすべて興味があった。親戚の葬式写真の合成もやった。

EOSもいろいろ使った。750、650、630、100と替えた。
今はRT、630、55で落ち着いているし、他に買う気もない。EOSは600シリ−ズが一番使いやすいと思う。視線入力よりもフォ−カスロックのほうが早い。どっちにしても暗いズ−ムしか持っていないからである。
EOS1シリ−ズは買って買えなくもないが、あれはプロが使うカメラ、俺はアマチュアと割り切っている。
EOS55はストロボ内蔵なので家族の一眼として手放せない。緑マークで全自動、暗ければ勝手にストロボがポップアップして光ってくれる。

そういう訳で、EOS55はカラーネガ、RTはモノクロ、630はリバ−サルと一応は使い分けている。




セピア色の思い出 コニカS

誰でも記憶の底にある懐かしい写真。それはカラ−ではなくセピア色に着色されたあいまいな映像、、、、、、、。
60〜70年代、カメラは誰でも持てるものではなかった。一家に一台の高級品である。
記念すべき日に、戸主であるお父さん、またはおじいさんが、たった一枚の写真を子供か孫のために一生懸命写していた。
傍らに、春なら桜、夏ならひまわり、秋なら菊が咲いていて、子供たちが少し緊張気味で写っている。
そんな時代に活躍したであろうコニカS。
このカメラ、セレンによる定点合致式である。距離計によるピント合わせ。レンズは48mmF2。当時の最高級カメラである。レンズは今でも十分実用になる。

このカメラを手にしたのは10年前、とある骨董屋でみつけた。値札に7千円とあった。買えない値段ではない。迷うことなくこれを求めた。
気分はライカである。M3にズミクロンを付けた気分で、モノクロで子守がてら子供達を撮りまくった。
この頃はAF一眼のEOSを使っていたので、距離計というのが逆に新鮮であった。
出来上がったモノクロ写真を見て、えっと思った。シャ−プさというのと違うおおらかさ。言葉で表現できない広がりを感じるのである。
それから数ヶ月間はこのカメラばっかりであったが、次のカメラが手に入ると同時に一度も使っていない。

久しぶりにこのカメラを持ち出してみようとフィルムを詰めたまま、いまだに一枚も撮っていない。あの頃に比べて、余裕がなくなっているのだ。そのことを考えた時にふと気が付く。
あのレンズのゆとりのある描写は、レンズそのものよりも、時間のゆとりが写っていた事に。
ゆったりと流れる時間そのものが写っていたのである。





日本の日の丸弁当フジカG690

今回は120ブロ−ニ−にスポットを当ててみる。フジカG690である。

通称弁当箱とよばれるこのカメラ、フジフィルムが総力を結集して作ったと言われている。
120フィルムを使い、かつライカの速写性を考えると必然的にこのスタイルになる。
誰でも一度くらいは観光地でこのカメラの前に立っていると思う。そう、集合写真専門みたいなカメラである。

三脚に立てて、絞込み前列から後列にピントが来るように設定して観光客を並ばせる。あとはレリ−ズするだけ。フラッシュバルブもよく似合うカメラである。
現行ではGWシリ−ズとしてレンズ交換できないシステムを展開しているが、中判レンジファインダ−69サイズでレンズ交換できるシステムは、後にも先にもこのシリ−ズだけである。

一台は大阪の中古仲間より手に入れた。65mm付きで25000円くらいだったと思う。35mm換算で広角32mmくらいの画角である。
困った事にF値が8である。ピ−カンでない限り手持ちは無理である。しばらくは三脚ごとかついでスナップに使っていたが、ある雑誌で100mmf3.5のレンズがいいレンズであると知ってから、ずっと5年間探していた。
今年6月、ヤフオクをなにげなくチェックしていると、あるではないか。しかもボディはGM670である。値段はその時点で28000円。あと5時間である。自動延長なし。3分前に入札、なぜか誰も入札せずそのままゲットした。このレンズのために5年間を費やした事になる(笑)。

さてこのカメラ、別に集合写真に使うつもりはなく、やはりスナップ用。本当はアラ−キ−の使っていたマキナ67が欲しかったんだけど、とても高くて手が出せないので、その代用である。
下駄履きの67というのにすごく憧れた時期があり、ご近所写真に中判を使うというアンバランスがすごくよかった。
十日町の裏通りをよく撮ったものである。

モノクロで伸ばすと、35mmと違って、空気感が写るので、面白がって撮っていた。
鉢の石仏もレフ板をしっかり持って撮りにいったり、秋の紅葉を撮ったり、思えばあの頃が一番楽しかった。ジャンルというものをまったく意識していないのがよかったからだろう。

この日の丸弁当、今度はこれで息子の卒業式の写真を撮ろうと身構えている。
一台には400プレストのモノクロ、もう一台はリアラを詰めて。
やはりフィルムはフジが似合う。なにしろ日の丸弁当である。




ちょっと気軽に小旅行 オリンパス トリップ35

西洋にはバカンスを楽しむための言葉が多い。ピクニック、ハイキングはどう違うのか?ピクニックは公園とかの低地、ハイキングはハイと言う言葉がつくから、高地?それではトリッブとトラベルは?小旅行と大旅行ってところか?

昭和43年の5月、海外でのハ−フ判の売れ行きが思わしくなく、輸出担当の営業より希望されて作られたカメラだそうである。
基本はペンEES。ちょうどその頃ロ−ライ35が発売。フルサイズの必要性を国内でも認識せざるをえなかった。ペンの売れ行きに影響を与えるという声もあったが、国内での発売に踏み切ったということである。

実写性能の良さ、無故障、安価、電池要らず。今見てもうまくまとまったカメラである。発売後20年間というロングセラ−がそれを証明している。

セレンによる2速式プログラム露出、1/30と1/250秒。絞りはF22まであり、万全である。ストロボ用のマニュアル絞りも付いており、この場合1/30の固定となる。暗いところは赤べろが出てシャッタ−ロック。ピントは目測式、0.9〜。これだけあれば一般の写真はまず間に合うだろう。本当によくできていると思う。

総発売台数はなんと1000万台。これは大変な数字である。
ヤフオクでチェックしてもやたらと多い。なにしろ平成元年まで発売していたのだから恐れ入る。

このカメラを初めて手にしたのは、かなり古く15年くらい前である。大阪のオモカメ収集で有名な今井さんという人から譲ってもらった。たしか一台2000円くらいで、他のカメラを含め5台くらい買った覚えがある。
手にしてからは、もっぱらストロボ専用として使った。飲み会などにはもってこいである。

子供ができてからはこの目測式は重宝だった。人間オ−トフォ−カスなどと呼んで面白がっていた。カラ−でもモノクロでもレンズに不満はなかった。
ただ開放の描写はちょっと。しかし一段絞られるとぐっと描写がよくなる。F5.6で最高の描写をする。
写真道楽始めて、一番フィルムを通しているのがこのカメラであろう。

このトリップという言葉は気に入っている。日本人の一泊や二泊の旅行はほとんどトリップであろう。トラベルではない。

15年前、トリップという言葉を知ってから、スナップの一人旅にこれ一台を持って知らない町をさまよい歩きたいという夢はいまだに実現していない。
いつかいつかと言っているうちに、男の厄年を通り過ぎてしまった。
さすらいの旅は男の夢。それが無理ならせめてたった一人の小旅行。ささやかな庶民の夢である。
その庶民の持つカメラは、やはりトリップ35でなければいけない。




日本のロ−ライフレックス ミノルタオ−トコ−ド

ロ−ライフレックスが買えなくて、ヤシカやミノルタを使う。これは消極的な使い方である。戦後の日本がまだ貧しく、三種の神機がテレビ、冷蔵庫、洗濯機の頃のお話。
今日本は豊かになり、ロ−ライやライカも買おうと思えばカ−ドで買える時代になった。
そこで見直されるようになったのが、国産の中古カメラである。
ロ−ライは買えるようになったけど、よく考えたら国産もいいじゃないか。なかでもミノルタはよく写るし、うん、これでたくさんだ。
これが積極的な使い方である。

カメラが欲しいという動機はたくさんあるが、本当に必要だからといって買う人は少ないだろう。一般には安い35mmコンパクトカメラか200万画素程度のデジカメがあれば十分である。
ましてや二眼レフなどという旧式カメラはクラシック以外の何物でもない。
自分が物心ついた頃には、すでに二眼レフの時代は終わっていた。
最後まで残っていた国産二眼レフは、マミヤC330だが、これさえ生産終了になってから5,6年経つだろう。
作品作りに必要だからというので二眼レフを買う人も中にいるだろうが、ほとんどクラカメ収集家が買っていると思う。本当に中判の欲しい人は、マミヤかブロニカか、憧れのハッセルであろう。
かくゆう自分も、安かったからという理由である。仙台の人より、ピントレバ−が折れているものを、一万前後で求めた。
修理には時間がかかった。撮影レンズをすべてはずしてピント合わせからやり直したからである。

このカメラが名機であることは、田中長徳「名機礼賛」に詳しく載っているが、それを真似していろいろ撮り歩いた。わざと水平をださず少し傾けて撮るのである。
こうすると66のスクェアに動きが出るのだ。リアル感が出て、まさにコンテンポラリ−である。

スナップには使えない。いや使えるのだが、このスタイルは目立ちすぎるのだ。
首から下げているだけで注目の的。せめてもの救いはウェストレベルだから下向きで撮れることである。
とにかくすれ違う人がすべてこのカメラに注目する。中に
は声をかけてくる人もいる。多くは年配者である。懐かしくてである。

面白いのは若い人たちである。「写真屋さんみたいですね」とよく言われる。どうもそういうイメ−ジがあるみたいである。
女房に初めて見せた時などは「なんで測量機なんて持ってるの?」と言った。レベルと勘違いしているのである。

なにはともあれこのカメラ、とにかくよく写る。モノクロでは中判特有の空気感が特によく出る。
あきらかに35mmとは違う描写をする。だからどうしたと言われると返答に困る(笑)。
しょせんオタクの世界である。わかる人にはわかり、わからない人には、どんなに説明してもわかるものではない。

ほとんどモノクロ一辺倒の自分であるが、珍しくカラ−ネガを使い夏のひまわり畑をこのカメラで撮ってみた。サ−ビスサイズの同時プリントを頼んだら、戻ってきたのは勝手にトリミングされた長方形。
このプリントを見る限りは、コンパクトカメラで撮影したものと何ら変わるところはなかった。
やはりオタクの世界である。わかる人にもこれではわからない(笑)。



Mさんのくれたカメラ ヤシカエレクトロ35GSN

12月23日、早朝6:30、知人であるMさんが前立腺癌のため永眠されました。
享年48歳。
追悼の意味をこめて、生前Mさんより安く譲っていただいたカメラを今回は取り上げて見ます。

Mさんはムラマサさんの友人であり、近所でもあったため、最後までムラマサさんが付き添っていました。

あまりにも短い人生、思う事はいろいろありますが、残された我々ができる事は、Mさんの分もしっかり生きて、無駄のない生き様をしたいと思う事だけです。

あらためてMさんの生前をしのび、お悔やみ申し上げます。

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季節はいつだったろう、コタツがあったような気もするし、なかったような気もする。
ムラマサさんの家にカメラを持って遊びに行ったとき、Mさんも同席していた。
カメラの話をしていたら、うちにも一台使わないのがあるからと近所とはいえ、わざわざもってきてくれた。
そのカメラがエレクトロ35GSNであった。
エレクトロ35もいろいろシリ−ズがあるが、これは中期の頃である。GSのモデルにホットシュ−をつけたマイナ−チェンジ版。
Mさんも「どうせ使わないんだから、いくらでもいいよ」ということで3千円くらいでこれを求めた。
帰ってからよく見るとレンズとファインダ−にカビがある。この頃は自分も修理は得意だったので簡単にカビを取りぴかぴかに仕上げた。

このカメラは万博をピ−クとして、ものすごい数が売れていると思う。というのは中古のタマ数がやたらと多いのである。
シリ−ズとしては、日本で一番売れたカメラではないかといえなくもない。

今このカメラをしみじみと眺めている。
日本がカメラ産業の頂点に立った頃、電気というものにいち早く目をつけ、電子シャッタ−を取り入れ絞り優先のAEを取り入れたことは、歴史に名前を残す快挙である。

ヤシカという会社、大衆機に重点をおき、高級機をしり目に、売れるだけ売りまくっていたと言う感がする。
ニコンやキャノンなど最初から眼中になく、客層がまるで違うといって大衆機、中級機を作りつづけて、一世を風靡した。
もちろんレンズが富岡光学であったことが、安くて写りが良いと言う事の援護射撃になっていた事はまちがいがない。

ニコン、キャノンよりも安いといっても、当時の人は、このカメラ一台のために骨身を削りやっと買ったに違いない。
Mさんももちろんその思いであったろう。年代的に見て、多分高校生か社会人一年生くらいにこれを求めた計算になる。
何を思い、どんな苦労でこれを買ったかは、Mさんの亡くなった今は知るすべはない。

Mさんのなくなった日の夜、安い焼酎を飲みながら、ヤシカ エレクトロ35GSNのレンズのコ−ティングを眺めていた。
俺も後何年生きられるのかな?
なんて、今まで考えた事もないような疑問が浮かび上がってきた。
以前は死ぬと言う事は事故しか考えられなかったが、平均寿命の半分を過ぎてみると愕然とする。
病気と言う名の死神はいつも隣にいるのである。

そんな事を考えながら、枕元のスタンドの光でこのレンズを眺めていると、Mさんの生前の笑顔がレンズに映ったような気がした。

その夜、もう一杯の焼酎を エレクトロ35GSNの傍らにおいてスタンドのスイッチを切った。
なんともやるせなく、寝苦しい夜であった。




ささやかな博打、ジャンクカメラ コニカ ビックミニ BM301

ジャンクカメラ。これに手を出すには少々勇気がいる。ダメモトが基本であるが、やはり修理したいと思うのが心情である。
今回はそんなお話。

いつものようにヤフオクをチェックしていると、ジャンク3台2000円をみつける。
フジカ110AWの部品が欲しかったので入札。他のはおまけと考えて同金額で落札した。
一台はコニカの110のマリンモデル。これは電池液漏れにより修理不能だった。

もう一台がコニカBM301である。電池を入れてシャッタ−を切ってみる。あれ、どこもおかしくないぞ?
いろんな条件でチェックする。やはり不具合は見つからない。やった、これはジャンクじゃない。
翌日が子供会の行事だったので、役員の仕事を兼ねてためし撮りである。何枚か撮るうちにやっと気が付いた。
はてな、確か24枚撮り入れたんだけど、、、、、?カウンタ−は30枚をゆうに超えている。
汗である。

夕方、丸好カメラへ。
コマの重なりが考えられますね〜と主人が言う。
翌日取りに行くと、案の定見事に重なっていた。
救えるネガだけ頼んであったので、見てみると5枚くらいしか救えなかった。
最初からカラ−を入れたのが間違いだった。

そうなんです。このカメラ、フィルム送りだけがジャンクだったのです。
オ−トロ−ディングならではの故障。実際にフィルムを入れて試写しないと絶対にわからないジャンク。
昔のカメラにはこういう故障はなかったんだけど、ハイテクゆえの欠点である。

故障個所がわかれば、原因を探り、原因がわかればその個所を修理する。
これが修理の基本であり当たり前の事だが、今回は原因がわからない。

これだから電気カメラは嫌いだといいながら、とりあえずいじってみる。
重なると言う事はフィルムが空送りするという事である。空送りするということはモ−タ−に異常はないということ。
よく見るとパ−フォレ−ションの穴にかみ合うスプロケットの突起が小さいのである。
これが原因だと仮定してみる。そうするとフィルムが浮いているという結論になる。
その結論から導き出される答えはひとつ、フィルム押さえのベロが役に立っていないということである。
試しにそのベロを思い切り曲げてみる。
今度は曲げすぎて裏ブタが閉まらない。少し戻してみる。今度は裏ブタは閉まった。

さっそくモノクロフィルムを入れて10枚試し撮り。途中でフィルムを切って現像。
ネガを見る限りコマ間の重なりはない。
これにて修理終了とおもいきや、残りのフィルムを入れたらわずかではあるが一ヶ所重なりを発見。

とりあえずそれからいじっていないが、いまのところ大丈夫である。
不安を抱えながらも日常のメモに使っている。

レンズは悪くない。35mmF3.5のレンズ、これは使える。ビックミニ伝統の寄れるところがいい。
そうは言っても、デジカメを手にしてからはあまり出番がない。この手のカメラのシェアは確実にデジカメが侵食している。
カメラ好きの私でさえそうなのである。一般の人は推して知るべしである。

そういえばコニカがこの分野から撤退したと言う事である。当然他のメ−カ−もいずれ、、、、、。
わかっていはいるが寂しい限りである。



機能の凝縮、カプセルカメラ  オリンパスXA

このカメラが発売されたときは、あまり好きになれなかった。
その頃は一眼レフにモ−ドラと望遠レンズをつけて振り回すことにあこがれていたからである。

発売は1979年の5月。
この時期の業界を見回してみると、豪華絢爛である。まさに黄金時代。
代表的なのはキャノンNewF−1、ニコンF3の双璧を筆頭に、フジカ、コニカ、マミヤ、ペトリ、チノン、コシナというメ−カ−も一眼レフに参画しているのである。

そんな時代に、軽薄短小カメラも同時進行で多数発売されている。
オリンパスXAが老舗で、リコ−FF−1、ミノルタAF−C、ペトリCF35、チノンベラミ、そして今人気のロシアンカメラ、ロモのコピ−元のコシナCX1もこの時代のカメラである。

この一連のカメラ、現代のマニアには垂涎の的である。ヤフオクでもとんでもない値段がつく。
それでは当時の評価はというと疑問が残る。マニアックであると言う事が売れる条件にはならないからである。
それが証拠に中古のタマ数が少ない。
あれば希少価値であるから相場も高い。

この時期にはコンパクトカメラではAFが主流になっている。
もちろん代表はキャノンオ−トボ−イである。初期型からU型の頃である。

つまりこの時代は、一眼レフ最盛期、コンパクト化競争最盛期、AFコンパクトの主流期ということになり、カメラ業界あげての大激戦時代である。

この頃私は生意気盛りの二十歳前後。
オリンパスXAのよさに気付くはずもない。
とにかく男は一眼レフだと思っていた。
憧れはキャノンF−1。現実には会社のFT-bを使っていた。
XAなどは女の使うカメラだと見向きもしなかった。

チョ−トク氏の「名機礼賛」ではこのカメラを絶賛している。プロの使う隠しカメラということである。
なるほど、当時はそうであったろうと思う。ストロボを取り外すと手の中にすっぽりと収まるのである。
それを真似てずいぶん隠し撮りをした。
ジャスコの店内などは買い物の付き合いの暇にまかせてかなり撮っている。
けっこうス-パ-の店内は明るいのである。ストロボ無しで十分いける。

かばんの中にXAというキャッチフレ−ズを作りたくなるが、時代はまた変わった。
ミュ−の登場である。さすがオリンパスである。
これは小さい。しかもストロボまであのサイズに収めてしまった。ズ−ム付きの各種モデルもある。
それではXAの価値が下がったかと言うとそうではない。かえって高まってしまった。
絞り優先、露出補正、感度設定などマニアの喜ぶ機能が盛りだくさんである。
何よりもいいのはストロボの自動発光がないことである。一般には不便な事であるが、我々にはこれが逆に魅力になってしまった。
ミュ−はスイッチを入れるとフルオ−トで自動発光。これはおせっかいである。いちいちストロボ解除のあの小さいボタンを押さなくてはいけない。
ミュ−に比べてXAは写真を知っていないと使いこなせないカプセルカメラである。これが人気のある理由であろう。

それではレンズはというと首をひねる人も多い。
周辺がダメである。流れる。しかも周辺光量不足。
しかし私はこの描写が好きである。中心はズイコ−レンズ共通のカミソリのように切れるピント、そしてモノクロ、ノ−トリミングで焼いた時の周辺の焼きこんだような描写。
思い込みは欠点も美化してしまうと言えばそれまでであるが、なんていうのか、ドラマチックに撮れるのである。

一生手放せない伴侶としてのカメラ。
そんなイメ-ジを描いてみる。
いくつか思い当たるカメラの中のコンパクト部門では、まちがいなくXAである。
欠点は最短撮影距離が0.85m。
当時はこれでもがんばったほうであるが、ミュ−の35Cmにはとてもかなわない。



小西六の黄金時代 コニカC35EF

久しぶりにこのカメラを持ち出し、雪景色を撮った。初心の頃を思い出して、あぁ写真って楽しむものなんだと実感した。
フィルムを詰めたら何故か心がわくわくしたのである。カメラはこうあるべきだと再認識。

一眼レフの機能やレンズの描写でああだこうだといっているうちに写真の本当の楽しみを忘れていたような気がする。
そんな時、プリミティブなカメラはなんにも自慢するところがなくて、ただ写真をとるという行為だけが残る。

プログラムで目測式。ストロボは手動でポップアップ。手動でポップダウン。そしてもちろん手巻き。最短は1m。
これ以上でもこれ以下でもないカメラ。

このカメラは何故か2台持っていた。いたと過去形なのは、つい先日2台あることに気付いたからである。
一台は3000円くらいで京都の人から何かのついでに買ったような気がする。
もう一台は、東京の松坂屋カメラのジャンクワゴンから500円で3台買ったなかの一つである。もちろん完動品だった。

子供が小さい時は子守りかたがたこのカメラでよく撮ったものである。
予想のできない子供の動きは目測式が一番使いやすかった。AFではAFロックしている間に子供がどこかに行ってしまうのである。

モノクロで撮る事が多く、日曜日に撮影。月曜か火曜に現像し、水か木曜日に焼き付けとパタ−ンが決まっていた。
子供の写真は大キャビネを半分に切ったものである。これだとちょうどラボのL判に相当し整理がやりやすい。
できた写真は、ラボのくれるミニアルバム。
これがダンボ−ルにひと箱ぎっしり詰まっている。

このカメラのボディはプラスチックである。
そのわりに上下のカバ−はアルマイトブラック処理。これが高級感をかもし出している。
AF以前で一番売れたカメラではないかと想像する。
とにかく便利である。
誰でも簡単に取れて、暗ければストロボをピッカリ。レンズの描写もよく、紛れもなくヘキサノンである。

ミノルタとコニカの統合により、今後どうなっていくのかは見守るしかないが、ミノルタのボディにヘキサノンのレンズがつけばこれは面白いと思う。
今これを実現するには、ミノルタCLEにヘキサノンMレンズをつければいいが、なにせ高価である。
ヘキサ−なみの値段でレンズ非交換の合体カメラが出ないかと期待している。

フィルム交換しようと裏ブタあけたら、なんと、、、さくらカラ−のシ−ルが貼ってある。
このころはカラ−フィルムが高かった頃である。
「4枚増えて値段は一緒、どっちが得かよく考えてみよう」と欽チャンがやっていたのもずいぶん遠い昔となった。

コニカC35EF、通称「ピッカリコニカ」。
井上順が「ストロボ屋さん、ごめんなさい」とやっていた頃の時代。
これは考えてみれば当時は画期的なことだったろう。それまではストロボも一緒に持ち歩く必要があったわけだから。

時代はどんどん変わっていく。
変わることによって進歩してきた。ところがここにきて写真の大変革期を迎えている。
デジタルの登場により老舗のコニカも業界再編の波に乗った。

これからどこへいくのか、行き着くところはどこなのか。
すべてにおいてその先が見えてこない時代に突入した。燃料電池の実用化等今までの概念にない新しいものの出現。

せめてヘキサノンの名前は残して欲しいと思うのはやはりレトロなのかもしれない。



TTL測光の元祖  ペンタックスSP

いよいよ一眼レフのお話である。

このブラックのSPはかなり安か
た。6000円くらいだったと思う。もちろんボディのみの値段である。
その頃はSMCタクマ−のレンズを5本くらい持っていたので、SPFのサブのつもりで買った。

それまでは絞り込み測光の意味もわからずにいたのである。というより開放測光が当たり前だと思っていたのである。
実際に使ってみるとそれほど面倒でもなかった。露出は一度測ればそんなに頻繁にするものではない。かえってメ−タ−に振り回されずに快適に撮影ができる。

思えば露出至上主義が定着したのは、AFになって多分割測光が出てきてからである。
その結果、中央部重点平均測光との差はどれくらいだろうという疑問が出て来るわけである。

以前ファジ−という言葉が電化製品で流行ったが、昔の人の勘に頼るやり方はまさにファジ−だったわけである。
その点、技術の進歩で人間は退化し
てしまった。
ちょうど電卓ばかり使っていたら簡単な暗算もできなくなるという状況と似ていなくもない。

発売は昭和39年。私が5歳の頃であるからずいぶん古い。
そんな時代のカメラが驚いた事にまったく問題なく使えるのである。
今のプラ製のAFなどはとても及びもしないだろう。20年ももつかさえも怪しい。

ボディは総金属性。
見た目よりも持ちやすく、意外と軽い。
ブラック塗装の手ずれのはげた跡がなんともいえない。

クラシック音楽の大御所、カラヤンの一行が来日した際、メンバ−全員が免税店でこのSPを買って帰ったというエピソ−ドがある。
プラクチカマウントならどんなレンズでもTTL測光ができるからである。
当時一眼レンズの主流は万国共通のプラクチカマウント。本国ドイツでもかなりのプラクチカレンズが出回っていたのだろう。
M42とも言い、Pマウントとも言う。
日本ではペンタックスのほかに、フジ、ヤシカなどが採用していたし、あまりにもメジャ−なため、ニコンやキャノン、ミノルタ、コンタックス、オリンパスと主流メ−カ−はほとんどアダプタ−を用意していた。

私はロシアンレンズを付けるのに重宝している。というのは本家のM42ロシアンカメラ、ゼニットにはろくなカメラがないのである。
しかしM42ロシアンレンズを快適に使いたいとなると必然的にこのカメラが候補に上がってくる。


今年の夏、ヤフオクでタムロンのアダプト−ルUのM42マウントを手に入れた。
これで手持ちのタムロンMFレンズ約10本すべてがSPにくっつく事になった。
ということはロシアンカメラの新品ポンコツボディに最新のタムロンレンズもつけられるということになる。
ロシアンカメラにタムロンのサンニッパでもつけたら面白いだろうなーなんてバカな事を考えている。

このカメラには古い看板が似合う。
キンチョウやフマキラ−の由美かおるの看板、三光丸、明治ネオゴ−ルド牛乳の看板なんかを写したら一番似合うだろうと思っている。
この類をEOSのズ−ムなんかで撮ったら興ざめしてしまう。
なんてバカな事を考えながらウィスキ−の水割りをなめている。
お、、、ここはやっぱり日本酒かな、剣菱なんてのが似合うのかも(笑)。




浪花のカメラ1/2000秒の意地 ミノルタV2

このカメラを手に入れたのはかれこれ10年前。大阪の人から手に入れた。ミノルタ特有のやや丸みを帯びたデザイン。見た目のとおり総金属製の重いカメラである。これだけ重いとシャッタ−ブレもないだろうなと思ってしまう。全体にくたびれた感じであるが、機能はすこぶる快調である。シャッタ−音がチッという感じで、なんとなくライカを思い出す。ミノルタとライカは親戚だからそう思えるのか、常にライカの影が付きまとう。XEやCL。アペックスとか、かなりOEMをだしている。

このカメラの特徴はなんといっても1/2000秒である。一般にレンズシャッタ−は1/500が限界であるが、小絞りを利用することにより実現している。1/1000秒は絞りF4より、1/2000秒はF8より可能である。しかし当時の高速フィルムはASA100。これを必要とする場合はめったになかったのではないかと考えてしまう。いまでも?9xiで1/12000秒を実現しているところを見ると、ここにミノルタの浪花の意地を感じるのである。

ミノルタと言うメ−カ−は不思議とプロ用機材を作らず、いいカメラを出しては、次々とトカゲの尻尾切りをする。開発と発売のサイクルが早いのである。これを真似してAF一眼の頂点に立ったのがEOSであるが、この逆にサイクルが遅くて失敗するのがニコンである。

ミノルタはなぜプロ機材を作らないのかと言う答えはわかっている。売れないからである(笑)。最近やっと?9でプロ用に近づいたが、新聞記者が使っているのを見たのは一回だけである。しかしプロ機材を作る事はリスクも大きく、商売としたらむしろないほうがよく、一般大衆に売れるカメラを作っていたほうがよい。
ミノルタはちゃんとわかっているのだと思う。カッコよりも実質的な利益を優先するあたりはさすが関西のメ−カ−である。

ミノルタはん、儲かりまっか?浪花の意地を見せたろやないかい!




鉄砲とカメラ ペトリ7s

若い時、親父は秋山郷に仕事に行き地元の人とずいぶん親しくしていたみたいである。特に熊とりの猟師と親しくしていたらしい。
これは母親から後で聞いた話であるが、親父は鉄砲を持っていた。母にしかられるので、タンスの中に隠しておいたのを見つけられてしまった。母は、鉄砲なんて物騒なものは返してきて欲しいと執拗に迫ったらしい。とうとう親父も負けてしまい、鉄砲は返品となった。その代わりに買ってきたのがこのカメラだったそうである。母は、カメラなら子供の写真を撮って貰えるし、道楽としては平和であると考えたのだと思う。

その後このカメラは我が家の宝物として約20年間活躍する事になる。買ってきた店は、先代の丸好カメラ。一年の月賦でやっと買ったそうである。ところがこのカメラで撮ってもらった覚えはあまりない。それを証明するかのように古いアルバムにも何枚かしか写真が残っていない。どうも親父は本当にカメラや写真が好きだったのではないらしい。無理に母に言い含められて買ってきたものだと思う。

このペトリは私が生まれた頃に買ったらしい。そして私が20歳のときに壊れた。巻上げができなくなってしまったのである。今なら自分で修理できるが、その頃はとにかく一眼レフが欲しくて仕方なかったので、こんな古くさいカメラはもう要らないとばかりにゴミに出してしまった。今考えればもったいなかったと思う。

ところが今月中旬、津南物語さんより紹介があった。ペトリが2台出ているということ。さっそく見てみると、一台はペトリ7。もう一台のほうがこのペトリ7sだったわけである。ぎりぎりで入札。誰とも競わずそのまんま4000円であっけなく落札した。最近はカメラ買っても以前ほど嬉しくもないのであるが、このカメラは久々に嬉しいと思った。けっこう綺麗だったのである。

このカメラで写されたであろう写真。しみじみと眺めていたら、この写真がなくなっても別に困る事もないのではないかと考えてしまった。写真とはそんなものでしかないかとがっかりしていたら、年老いた母がやってきた。懐かしい写真を見ると、遠い目をしてぽつりと言った。「あの頃は大変だったな−」と。そして昔話を淡々と始めた。その話を聞いたあとで写真の価値を改めて考えた。この一連の古い写真を必要とするのは、我々兄弟でなく、両親ではないかと。
そう考えると、今我々が大切にしているのは、自分達子供の頃の写真ではなく、我々の子供達の写真なのだと。

いつの世にも子を思わない親はなく、、、、、と書いたら、頭の隅に幼児虐待という言葉が浮かんだ。あの事件の親達は子供の写真を撮った事があるのだろうか?子供が子供を育てているような現代、昔の人の例えが当てはまらないほどすさんでしまっている。

昔、ビデオもましてやデジカメもなかった時代、唯一の記録媒体がカメラであったことを思うと、このペトリ7sは両親の愛情の表現であったといまさらながらに考えてしまう。たとえそれが鉄砲の代わりであっても(笑)。




最初で最後のキャノンのコパル キャノンEF

このカメラを入手したのは骨董屋である。古い虫食いの染付けの皿の横に3台並んでいた。
ニコンF2とコニカオ−トS、そしてこのEFである。その3台すべて買ってしまうことになるのだが、そのときはこの一台だけを8000円で入手した。レンズはタムロンの28mmF2.8の単焦点付である。

最初このカメラを見たとき胸が躍った。何故ならキャノンF−1に似ていたからである。買うか買うまいかずいぶん迷った。まだカメラをコレクションするという気持ちはまったくなかったからである。しかもキャノンのFDマウントのレンズは一本も持っていない。その頃はミノルタのXEでバンバン撮っていた頃であり、どちらかといえばMCかMDマウントのレンズが欲しかったのである。
迷う事30分。店の親父さんに見せてもらい、手にした時にすでに心は決まっていた。値札は一万円ジャスト。すると店の親父のありがたいお言葉。「8000円にしとくよ!」これで決まりである。

さて家に帰るのも歯がゆく、車の中でさっそくファインダ−を覗く。ゴミが二つある。これくらいは仕方ないかともう一度見ると、なんとゴミが二つ動き始めたではないか。な、なんだこれは?よ〜く見ると足が生えている(笑)。もしかしたらこれは世間一般でいうところのダニではないか?

結局このカメラも分解しなければならなくなり、プリズムをはずしてファインダ−スクリ−ンの清掃をした。といってもセロテ−プで夫婦と思われるダニをペタンとくっつけて取り除いただけであるが。

入手はしてみたものの、安かったので、もしかしたら壊れているのではないかと言う不安が付きまとう。水銀電池を2個詰めて単体露出計と比べてみるとまったく同じだったので一安心。問題はこの後である。水銀電池は生産終了。まだちらほらと売ってはいるものの、今のうちにアルカリ電池との電圧差のデ−タをとっておこうと思ったが、いっそのこと改造してしまおうと、また分解し、電圧差分をなくす改造を試みた。というとかなり面倒なことをしたように聞こえるが、やってみると意外と簡単。ギアの溝をちょっとずらしただけである。
これよりキャノンのカメラが順次集まってくるが、最初のカメラがEFだったわけである。

このカメラ、キャノンで最初で最後のコパルの縦走りシャッタ−をOEMで使っている。1/2秒から1/1000までを機械シャッタ−として、低速1秒から30秒までを電子シャッタ−としているハイブリッドである。ということは電池は食わないだろうと考えられるが、ところがどっこい、バカの電池食いである。プロカメラオタク?のサンダ−平山は、電池を入れずに、単体露出計で使っていたら
しい。

しかし、それ以外は感触のいいカメラで、金属の塗りやメカニックな部分はさすがキャノンである。特筆はファインダ−内にシャッタ−スピ−ドと絞り表示が出る事であり、シャッタ−スピ−ド優先AEのくせに、非常に使いやすい。ミラ−アップもできるし、あとは何もいうことがない。

先日、子供会のかまくら行事にキャノンF−1nと一緒にモノクロ、カラ−と撮りわけた。気分は70年代後半のプロ気取りである。
手巻きで巻き上げるリズムがなんとも心地よく子供達の笑顔がたちまちフィルムに焼きついた。久しぶりにMF一眼を使ったわけである。あぁ、、、こんないいカメラがすでに20数年前に作られていたのかと再認識した小正月であった。


                                                                

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